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義村タフさん(昭和55年当時:86歳)
毎朝10時ごろになると、おばあさんが茶桶を取り出し、小さな竹ぼうきのよ
うな茶筅(ちゃせん)を手にしてサクサクと心地良い音をたてて熱いお茶をかき
まぜ、生ビール風の泡をたてる。タフさんは、「茶甘(チャアマァ)だよ」とい
いながら小さな湯飲みに注がれたそれを受けとり、すすり込む。クリーム状の
泡は確かに甘かった。――お年寄りの幼い頃の懐かしい想い出として、こんな
話がよくでる。亀津あたりでは、「フイ茶」と呼ぶ。
もうすっかり姿を消した習潰かと思っていたら、まだこの古風を守っている
祖母達が何人かいた。亀津十区の旧家である義村家のご隠居であるタフさんも
そのひとりだ。
「年寄りはヒマだから、手なぐさみにやっているだけですよ」「母も祖母も
朝10時と昼3時には、必ずお茶を振っていた」
そう穏やかな笑顔でタフさんは語る。
「ウヤホウの昔からずっとお茶を振る音を聞いて福の神がやってくる」
タフさんは、母からそう教えられた。
年をとって母の言葉を思い出すたびに「なるほど」と思いあたることが多い。
「お茶を振っていると音を聞きつけて隣近所のお友達が集まってきます。とき
には通りがかりの見知らぬ人も顔を出して世間話に花が咲きます。すると人の
つながりと和が生まれます。そのことを福の神といっていたのではないでしょ
うか」お茶の葉は、むろん島外からの移入品である。亀津ではヤマトの商人が
店売りしていたが、村々では、てんびん棒を担いだ行商人が売り歩いていた。
現金流通の少ない時代だったので、割れ鍋などのクズ鉄と交換することもでき
たらしい。
現在、亀津の商店街は、ほとんど島の人の経営だが、戦前はヤマトからやっ
てきた人が多かった。というのも、島には、もともと“商売”という考え方が
なかった。魚をとれば家で食べる以外は親戚や隣近所へ配ってしまうし、野菜
でも、多くできれば、また配る(義村タフさん)というような関係が普通だっ
た。自給自足が原則だったので、足らないところを融通し合えば本土物資を扱
う店以外は必要なかった。また店を開いたとしても親や親戚縁者が、店先から
勝手に商品を持ち去ってしまうので商売として成り立たない。すぐにつぶれて
しまう。島の人が本格的に商売をするようになったのは、戦後になってからで
あった。
互いに助け合うユイワクの思想は、厳しい島の生活環境にあって生きのびてい
くのに必要な知恵であったが、一方では、商業の発達を阻害していた。
戦地から帰ってきた息子達が「商売を始めたい」と言ったとき、そうした事情
を知り尽くしているタフさんは、息子たちが味わうであろう今後の苦労を思った。
そして、心の中で秘かに誓った。
「親が子に持っているものを与えるのは道理だ。だが、子に甘えるのだけはよそ
う」そして、終戦後の混乱期にあって、朝早くから日の落ちるまで田畑を這いず
りまわるようにして働き、食料難をのりきった。
子も母の働く姿を見ながら、それぞれ事業を起こし大成させた。壁にぶつかると、
黙って母の茶を飲みにくる。
関東に住む息子の家へ遊びに行ったとき、「懐しいからフイ茶を飲まして欲し
い」というので、風呂場で湯を汲むのに使うプラスチック製の小桶(柄付きで茶
桶に似ているもの)を使って茶を振った。茶筅は、裏山に生えていた笹を束ねて
代用した。孫たちも珍しがってジッと視つめていた。そして、「お祖母ちゃんは
茶道の先生なの?」と、真顔で尋ねたので、「そうだよ。島の茶道さあ」と笑っ
て答えておいた。すると、翌目さっそく幼稚園で先生に、そのまま報告したとい
うのでまた大笑い。
孫たちの話をするとき、タフさん目はあふれんばかりの愛清で輝く。「子供が
たくさんいる家は、サカェビキ(栄えビキ)」というのが持論。
以下は、3時のお茶を飲みながらの昔話。まずは子どもの頃の遊びについて――。
わたしの頃は尋常小学校で、4年まででした。それでも女に学問は必要ないと
いって、学校に通わせない親も多かったです。わたしは4年まで通わせてもらい
ました。学校が終わると友達同士集まって手マリをしました。マリはもちろん自
分たちで作るんです。ソテツの頭についているナミノハナ(ピンク色の綿毛)を
芯にして芭蕉の糸で丸く固め、次に紬の裏地糸を巻いて、最後に色糸でかがりま
す。
マリつき歌を唄いながら日が暮れるまで遊びました。でも親の手伝いがあるの
で、いつもというわけではありませんでした。昔の子どもはけっこう忙しかった
んです。
楽しかったのは、やはり正月と、「浜降り」の日。とくに浜降りの日には、新
しい着物を着て、爪には昔風のマニュキアをしました。庭のアーガマッカン(赤
いホウセンカの花)で染めたんです。そして、こんな歌を歌いました。
吾やんめのカマッカン
枝先ぬきゅらさや
吾やヤクミガトジの
爪なそめら
(自分の庭のホウセンカは、
技ぶりが美しい。兄さんの
お嫁さんに染めてあげよう)
タフさんの記憶力には驚くべきものがある。小学校で習った洗面と歯磨きの歌を
“振り”付きで憶えている。いま夏休みで帰省中のお孫さんも、幼いころタフさん
に教わって毎朝一緒に歌っていたとのこと。
タフさんお手製のお茶受け(黒糖や油味噌)をいただきながら、茶飲み話は、さ
らに続く。
お茶うけのこの黒砂糖も、いまは工場へ運び込めば、それで終わりなのだけど、ひ
と昔前まではそうはいきません。刈り取りのあとは、砂糖ヤドリ(小屋)を組んで2ヵ
月以上も泊まりこみ、砂糖を炊くのです。終戦直後まで続きました。
朝早くから砂糖車を牛に引かせてキビ汁をしぼり取り、大きな鍋で夜中過ぎまで煮
つめたものです。
寒い時期になると水蒸気が煤(すす)で真っ黒の水滴となってポタポタ落ちてきまし
た。だら着物も布団もベタベタに汚れて、それはまあスザマシイ姿でした。でもそ
れが普通だったので、あまり気にもならなかったのですが。
子ども達も学校がひけるとすぐ牛の追い廻しです。砂糖車の横木につけた牛の尻か
ら、自分もグルグル廻っていました。遊びも食事もすべてキビ畑です。寝るのも大低
はキビのハカマの上でした。孫に話しても、どうもピンとこないようです。でも、つ
らいことばかりではありませんでした。火を燃やしながら、同じサタ組のオジさんや
オバさんから話を聞いた楽しい思い出があります。苦労して全部炊きあげた後のお祝
いは、また格別です。
お茶の良し悪しは水で決まります。亀津は水がおいしいので有名でした(今は、水
道の味しか知らない人も多くなりましたが……)。
それは、大瀬川の水です。実に清らかなものでした。また水量も多く、亀津中学校
のあたりは子供たちの水練場となっていました。飲料水もその土手から汲んだもので
す。この地区の人たちは、みんな大瀬川の水で育ちました。
「だから頭も良いし身体も丈夫だ」と自慢もし、大事にしていたのです。現在の川の
汚れようをウヤホウが見たら、きっと嘆きかなしむでしょう。もうこの川の魚は誰も
口にしません。
お正月には、朝早く暗いうちから出かけていって若水を汲みました。「他人より早
ければ早いほど果報がある」といって競って駆けつけたりしました。それも「暗く蔭
になっている水面から汲むと、稲作時に適度の雨が降る」と言い伝えられていました
ので、そこをねらうのです。他の集落では頭上の桶で運ぶことが多かったのですが、
ここら辺は女性でもテンビン捧で水桶をかつぎました。ともかく水には恵まれていて、
あまり苦労はなかったようです。
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